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アイク生原に恋をした男
橋田壽賀子の脚本による五夜連続のテレビドラマが始まっている。題して「99年の愛Japanese Americans 」。日系人家族の物語。 次のように紹介されている。「99年前、一人の男が海を渡った。差別や戦争に翻弄されながらも生き抜いた家族の愛の物語」。ドラマは時にシアトルの風景を織り交ぜながら、戦争や人種、あるいは家族について考えさせられる内容となっている。
ドラマの冒頭シーンは大リーグ、シアトル・マリナーズのスタジアム風景だった。日系一世たちがアメリカの大地を踏んでから約100年、そこにはイチロー選手を応援するアメリカ人子どもたちの姿があった。時代は変わった。イチロー選手を初めとする多くの日本人プレーヤーがアメリカ人の意識を変えた。
その場面を見たときに、わたしの脳裏に一人の男が浮かんだ。森 茂仁。兵庫県西明石に住む60歳。彼はプラント建設の現場で、安全管理の仕事に携わっている。そして、そろそろ人生の先行きが見えてくる、そんな季節をまっすぐ生きている。
10月末の秋晴れの土曜日。JR大阪駅に隣接するホテル・ヒルトンで、森 茂仁はコーヒーカップを手に大きい声で話し始めた。「ぼくは29歳のとき、アイク生原さんに憧れてロサンゼルスへ渡りました。その後、夢だった野球関係の仕事には就けなかったが、アイクさんとの交友に支えられて今日まで生きることができました。日米野球界の大きな架け橋だったアイクさんのことは、一般人には知られていない。それが残念です」
森の球歴は輝かしいものではない。現在の神戸国際高校は甲子園にも出場する強豪校に成長したが、森の時代は前身の八代学園と呼ばれ、校名を口にするのが恥ずかしかったという。野球部は県大会へも行けず、夏は1回戦負け。ただひとつ、名門滝川高校戦で2つの盗塁を刺して吉本監督に誉められたことだけが、誇りとして記憶に残っている。
卒業後、森は川崎航空(現川崎重工)に就職。163cmの身長が社会人野球を断念した理由だった。仕事の傍ら、会社の軟式野球や小・中生相手のソフトボール指導に情熱を傾けていた彼に大きな転機をもたらしたのは、フト立ち寄った書店の「週刊ベースボール」の記事だった。それは大リーグ、ロサンゼルス・ドジャースのピーター・オマリー会長補佐として活躍する日本人、アイク生原(本名 生原昭宏)に関するものだった。
「アイク生原は1937年、福岡県田川郡生まれ。田川高校から早稲田大学へ進む。肩を壊し、石井連蔵監督から新人監督として下級生の指導を任される。卒業後2年間はリッカーミシンでプレーし、都市対抗野球にも2度出場。その後、亜細亜大学監督として4年で1部昇格を果たした。退任後はアメリカで勉強することを決意し、日本野球生みの親と呼ばれる鈴木惣太郎を訪問。3度門前払いで4度目に面接かなう。鈴木にもらったドジャースのウォルター・オマリー会長宛の手紙を手に、1965(昭和40)年単身海を渡った。1A球団で靴磨きをしながら懸命に働き、妻子を呼び寄せ、ドジャースの会長補佐に栄進。日米の架け橋として活躍し、1992年10月26日、55歳で逝去。日本野球殿堂入り」
記事を目にした森は即座に退職を決意し、19歳で上京した。しかし見事に挫折。若すぎたのだ。明石にもどり八代学院大学に進学。アイク生原(以後はアイク)に習って学生になった。母校の高校生を指導しながら、毎日駅のゴミ箱からスポーツ5紙を拾い集め、日米の野球記事を読み漁った。高校から「教職を取って監督になってほしい」と懇願されるが、4年後に再び上京。武蔵村山の親戚宅に身を寄せ、パ・リーグの記録員に応募し、当時日本ハム球団の社長だった三原脩を訪問したが、いずれも就職はかなわなかった。
思い込んだらすぐ行動に移す森の人間性はどこで身につけたのか。彼は鹿児島県の沖永良部島で生まれ、小3のとき一家で神戸に移住し、彼だけが祖母の付き添いとしてまた島にもどっている。小6で再度神戸に戻るのだが、転校によるいじめや貧しさは、森にたくましさと優しさを植えつけたようだ。
日本球界をあきらめ渡米の初心に戻った森は、国分寺の6畳間を拠点に、バイトや季節工を点々とする。駅で新聞を拾って求人欄に目を通す。放置自転車を修理して足にして、食事はキャベツ1個を6等分して炒めて食べた。弁当代がなく、昼食時は工場外をブラブラと歩いていたこともある。川崎の季節工では、仲間が「人間のする仕事じゃない」と辞めていった。そんなしんどさの中で夢をあきらめかけた時もあったが、若者同士の楽しいひと時はあった。
昼夜交替勤務の工場では仲間5人が6畳ひと間に泊まり、互いの夢を語り合った。宮城の青年が「森さんの夢、これまでの行動を聞いて勇気が出た。ぼくにも夢があり、やりたいことがある」、そういって故郷へ帰っていった。川崎のヤサカ研工では会社の人たちが送別会を催してくれたという。「森さん、壮大な夢を必ず実現してください」と。
冷たくなったコーヒーをすすりながら、森はいった。「30年前の宮城の青年、今はどうしているでしょうね」。彼は4年間の労働でかなりの資金を蓄えた。
いよいよ渡米だ。森は野球体育博物館で鈴木惣太郎の住所を聞いた。アイクが門前払いをされた、横浜市中区池袋の門をたたくべく、近くにアパートを借りて4ヶ月働き、満を持して手紙を書いた。昭和9年のベーブルース一行の来日にも大きく貢献した、真の日米野球友好の親、鈴木惣太郎から「会ってもよい」旨の返事が来た。
鈴木はいった。「アイクのときと時代が違う。今では日本人が入る余地はない。日本の球団で働きなさい」。もう自分で渡米するしかない状況にはなったが、森は幸運だった。日本プロ野球の歴史ともいえる人物に直接会えたのだから。
母校の教授がアメリカの牧師に手紙を書いてくれて受け入れ先が決まり、1978(昭和53)年3月30日、彼は羽田からロサンゼルスへ向けて飛び立った。29歳の春だった。教会でボーディングハウス(下宿屋)を紹介された。2食付で約4万円。そこには夢を持ち、あるいは夢に敗れた個性的な日本人が何人も住んでいた。
日系の弁護士からアドバイスを受けてアイクの住所が判明し、森は手紙を書き続けた。ロサンゼルスの安アパートから5ヶ月間、何度も何度も投函した。しかし応答はなし。さすがの彼も挫折しそうになったという。
ボーディングハウスの友人、久保(ひとつ年下)に思わずつぶやいた。「久保さん、もうだめだ、日本に帰るよ」と。すると突然に久保が怒り始めた。「森さん、見損なったよ、9年かけてやってきて、そんなに簡単にあきらめられるのか、あんたは普通の人がやれないことをやってきて、 俺、尊敬してたんだよ、金なら俺が出す、もう少しがんばれ」
そこへ、日本で6年やって芽が出ず、父親(元米軍人)を探しながら大リーグのファームで野球がしたいと願う、元プロ野球投手のO君がやってきた。伊東一雄(パンチョ・後のパ・リーグ広報部長)の紹介状でパドレス(サンディエゴ)へ行くも断られ、ロスにいる森さんがドジャースと親しいと、噂を耳にして北上してきたのだった。
森は噂のまちがいを正直に誤りながら、自分のことよりもO君のことが心配だった。アイクに手紙を書いた。「アイクさん、O君を助けてください」。するとすぐにアイクから電話が入った。「森さん、ながい間申し訳ない。家内に叱られてね。日本で6年やってダメならメジャーはとても無理。O君には他の道を探すようにあなたから説得してほしい。わたしのことが日本で報道されてからたくさんの手紙など来るが、実際にロサンゼルスまで来て、わたしに会いたいと行動したのは、森さん、あなただけです」
受話器を持ちながら、森はどれほどの感激を味わっていただろうか。アイクは続けた。「今はアメリカの優秀な大学生がドジャースで働きたいと願っています。正直言って球団で働くのは無理です。私のときはたまたま運がよかっただけです。森さん、わかっていただけますね」
森はとっさに頼んでいた。「わかりました。しかし、わたしは生原さんを目標に9年かけて此処まで来ました。一度だけでもお会いしていただけませんか。生原さんのご苦労話しをお聞きして、これからの人生の糧にしたいと願っています」。森は一気にしゃべった。数日後、アイクから二度目の電話があった。「ドジャースタジアムでお会いしましょう。夕方4時に第4駐車場の7番ゲートに来てください」と。
森は電話口でジャンプした。友人の久保は「皆で祝杯を挙げよう」と呼びかけ、ボーディングハウスの仲間がそれぞれにスピーチをくれた。「それみろ、待っていてよかっただろう。俺は森さんを信じていた」と久保がいった。森はほろりとした。
自分のことよりも、父親を探しにアメリカへ来たO君を案じる、森の優しい心がアイクを動かしたのかもしれない。この当時、ロサンゼルスで夢を追う日本人のコミュニティには、温かい人間的つながりがあった。
ドジャースタジアムへの往復は久保の車だった。アイク生原の車に乗り換えると、球場前の大きなエレベーターに乗った。最上階に着くと広い通路を左に曲がり、車は球団オフィスの横に駐車する。駐車場には「アイク」とプレートが置かれていた。一般人には絶対に入ることができないゾーンである。夢に見た大リーグのオフィス。アイクの淹れてくれたコーヒーを飲みながら、二人は静かに語り合った。
「(あなたの人生は)わかりました森さん、協力しましょう。英会話はいかがですか」。アイクの勧めで英会話学校へ入ることに。面談後、アイクは九州にいる森の父親に手紙を送っている。「ご両親様、ロスでご子息にお会いしました。わたしがアメリカに来たときを思い出します。りっぱな若者であることがわかりました。出来る限りお世話させていただきます。ご両親様、心配は無用です」。父の手紙で事実を知った森は、あらためてアイク生原の人間の大きさに感嘆した。
下宿屋からポツリポツリと日本人が去り、寂しくなってくると、森はひとりで野球と英語に打ち込むことを決意した。新しくアパートを借り、電話も引いて英会話学校へ通った。
ドジャースタジアムではアイクがチケットを手配してくれて、ドジャースvsレッズを特別席で観戦することが出来た。新生活は順調と思われたが、日本人がたくさんいてなかなか英語が覚えられない環境に、森の持つ生来の行動力が頭をもたげてきた。
「ここにいたら時間の無駄だ。思い切ってベロビーチ(フロリダ)へ行こう」
中古車を購入して、アメリカ大陸を西から東へ。約4、600キロを4日間かけて走り続けた。
ベロビーチ・ジャーナルでプライベート・ルームの募集を見つけ、ディナポリ(イタリア系)老夫婦の家に下宿することになった。その日、ドジャータウン(ドジャースのキャンプ地で、読売ジャイアンツや中日ドラゴンズもキャンプを張った)を見学していたら、「出て行ってくれ」といわれた。出ようとするとその関係者が、「君はどこから来たのか」と聞くので、「日本から」と答えると、「アイク生原を知っているか」という。森は力を込めて、「彼はぼくのスペシャル・フレンドだ」と答えた。それからは態度が一変し、カートで施設を案内してくれて、「何かあればここへ電話をしてくれ」と、わざわざスタントンと書かれた名刺までくれた。
ディナポリ夫婦に「スポンサー(保証人)は誰か」と尋ねられたが、そのときもドジャース職員のスタントンから生原に連絡が行き、彼が森の保証人になってくれた。森はここで、英語の勉強、教会での祈りやクリスマスなど、アメリカの家庭生活を経験し、「まるでアメリカ人になったようでした」と、当時を懐かしむ。
日本のプロ野球関係者の通訳、案内人を務めることができたのも、ベロビーチ生活の財産となっている。読売ジャイアンツから末次コーチと3人の選手がやってきた。数日後には、野球評論家の広岡、森、ベースボールマガジン社の池田副社長、デイリースポーツの児島の4氏もベロビーチ入りし、森茂仁はワクワクしながら通訳に精を出した。やっと彼の野球への情熱と、語学力を生かす場面に遭遇できたのだ。広岡達朗はことのほか森を可愛がり、今でも手紙を交換する仲である。
1年半のベロビーチ生活は、英語、野球の勉強、そしてアメリカの家庭生活と、すべてにおいて満足できる生活だった。米国滞在3年。森はその経験を日本で活かしたいと考えて、1980年10月、青春の思い出に包まれたロサンゼルスを後にした。
彼のその後は幸運だったとはいえない。日本のプロ野球界、高校野球、そのいずれとも縁がなく、彼は培った野球の理論や経験を発揮することなく60歳を迎えた。「今からでも高校野球の監督がしたいですね。ぼくの経験を若者たちに伝えたい、その思いがますます強くなります」。白髪が増えたスポーツ刈りの顔に、そのときだけは赤みが差して若やいで見える。
ノーベル化学賞を受賞した根岸教授がアメリカから帰国した。その第一声は、「今は化学もサッカーも、芸術も、世界が舞台ですよ」だった。元巨人の投手だった桑田真澄は語っている。
「プロ野球選手だからといって、別に偉いというわけではありません。運よくそうなっただけです」。そして彼は、早稲田大学大学院の平田教授の理論を借りながら、スポンサー、メディア、トップ選手、指導者、そして審判を同列線上に置く、新しい逆台形のスポーツモデルを提唱している。
そこでは森のように、情熱や経験は在るが、アマチュアであって、さしたる地位や肩書きを持たない者でも、指導者として力を発揮できる環境が生まれるように思う。
30年前、日本という国は若かった。若者には行動力があった。単身アメリカへ渡って日米の野球界に貢献したアイク生原と、その彼に恋をして、ドジャースで働くことを夢みた森青年。そして、彼を支えたロサンゼルスの貧しいボーディングハウスに息づく日本人仲間たち。いつの世も外国を視野に入れた人たちが社会に大きな影響を与えてきた。
今の日本プロ野球界にそういった気概はあるだろうか。考えさせられる無名の野球人、森茂仁の半生である。
(習志野博=文)
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