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  • 2010年6月1日

伊達モード~全仏オープンテニス~

 元世界ランキング1位、昨年のファイナリストでもあるサフィーナは混乱していた。
 ただ負けかけているというだけが理由ではない、今までのテニス人生では遭遇したことのない超常現象に巻き込まれ、理性を失っているようだった。
 相手の打つショット打つショットがもれなく自分の横を通り過ぎていく。
 とてつもないスピードで飛ぶわけでもない、けれど、追いつけない、反応できない。
 ポイントのたびにサフィーナは、何度も何度も金切り声で絶叫した。
 ネットを挟んだ反対側では小柄な東洋人が時々「カモン」と声を上げつつも、粛々とうつむきながらプレーを続けている。

 伊達モードに入ったら最後、誰も彼女を止めることはできない。

 アランチャ・サンチェス、メアリー・ピアス、コンチータ・マルチネス、ガブリエラ・サバティニ、そしてシュテフィ・グラフ、かつての女王たちも伊達モードに抗うことはできなかった。
 全くプレーが冴えず、細かいミスを連発し、圧倒的にリードされた状態から、不意にスイッチが入り、延々と、試合に勝利するまでほとんどミスもないまま奇跡的なプレーでポイントが積み重ねられていく。
 八百万の神が溺愛しているとしか思えない彼女を止めることはできない。


 2年前に復帰するというニュースが流れたとき、美しい夢が壊れてしまうような想いを抱いたファンもいた。
 12年というブランクを抱え、40歳になろうとしている女性が、あんなプレーを再現できるとは思えなかったのだ。

 しかし、しかし。
 復帰してから二年が過ぎ、徐々に世界ランキングを上昇させつつあったクルム伊達公子は、ついに全仏オープンという大舞台で、数多くの名勝負番狂わせの舞台となってきたスザンヌ・ランラン・コートで、伊達モードを復活させたのだ。

 極限まで無駄の省かれたコンパクトなフォームから、極端に早い打点で、しかしさほどスピードのないショットが繰り返される。
 その中でも三段階四段階と微妙に速度とタイミングを調整されたショットが相手の感覚を狂わせていく。
 不意に、ほんの少しだけ速いショットが、サイドラインを射抜く。
 さらに早いタイミングで捉えられたショットが反応を許さない。

 理屈で説明することは優しい、しかし、誰も、王者女王ですらも真似できない。

 リードしていたはずの対戦相手は理解不能な事態に、呆然とプレーを続け、敗れ去る。
 第2セット中盤からの驚異的な逆転劇、何度も見た。
 飽きるほど見た。
 3試合連続で見せられたこともあった。


 ファイナルセット6―5と王手をかけた。
 最初のポイント、サフィーナが打ったサービスは、初心者が打ったのかと見まがうほどの当たりでネットに引っかかった。
 マッチポイント、サフィーナの打ったショットは大きく外れていった。

 クルム伊達公子は小さく拳を握り、微笑んだ。
 あの頃、90年代の中頃、世界中のテニスファンを慄然とさせた伊達公子が帰ってきたのだ。

(小林浩宣=文)

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