[塾生]三浦敬介

  • 2010年4月15日

最後の1ピース

 新春の幕開けに相応しい華やかなフィナーレだった。
 第86回箱根駅伝の往路を制したのは東洋大学。“山の神”柏原竜二が主役を演じた大逆転のドラマだった。東洋大から見れば奇跡の大逆転勝利となるレースも視点を変えれば、結末は全く逆のモノになる。
 明治大学競走部駅伝監督の西弘美は箱根駅伝を4度走り、4年時に1区で区間賞を獲得した程の実力者である。箱根の厳しさを知り尽くしている彼からすれば今回の結果は納得せざるを得ないものではあった。明治大学は完璧な準備をしても勝てるとは限らない新春の大一番に重要なピースが1つ欠けた状態での出場を余儀なくされていたのだから。

 話は8ケ月前、5月17日に遡る。
 国立競技場で開催された第88回関東インカレは、例年とは異なり異常な盛り上がりを見せていた。男子1万メートル競走に前回の箱根駅伝で出色の走りを見せた3人のスピードスターが登場するからだ。ケニアからの留学生で、2区で大会記録となる20人抜きをいとも簡単にやってのけた日大のダニエル。“山登り”5区で衝撃の走りを披露した東洋大の柏原。そして、明治大の松本昴大だ。紫紺に「M」と刻まれた伝統のユニフォームで4区を激走した松本は湘南の海風をものともしない驚異の7人抜きで西監督から43年ぶりシード権獲得の最大の功労者と絶賛されていた。レース終盤での驚異的な爆発力を持ち味とする華奢なスピードランナーは、アイドルタレント並みのルックスを誇り、この日もスタンドから浴びせられる黄色い声援は3人の中でも桁違いの多さだった。
 スタートからデッドヒートを繰り広げた3人の勝負はダニエルが辛勝した。続く2位争いの最後の直線は短距離走を思わせる激しい競り合いとなり、国立のスタンドを大いに沸かせた。結果はトップから5秒遅れての2位が柏原、0.1秒差の3位が松本だった。宿敵2人の後塵を拝し悔しがる松本とは対照的に西は満足だった。高校駅伝の名門・佐久長聖出身の松本は、天才ランナー特有のムラッ気があり、どこか冷めたところがあった。その松本がライバルを見つけたことで目の色が変わったように見えたからだ。
「本気で箱根駅伝の優勝を狙える・・・」
 西は松本の肩を叩いた。
「雪辱の場は、箱根の“山登り”だぞ」

 本番、3ケ月前。
 箱根駅伝に向けての第一関門、出雲駅伝に臨んだ明治はベストメンバーには程遠い状態で今シーズンの初戦を迎えた。箱根制覇を意識するあまり例年以上のハードさで行われた夏合宿の影響で、エース松本に加え4年の安田昌倫ら負傷者が相次いだからだ。明治は若手選手中心のメンバーで積極的なレースを仕掛けたものの、健闘むなしく12位に惨敗した。落ち込む選手たちを尻目に、西の表情は明るかった。目標はここではないという気持から全く焦りを感じていなかったからだ。
 箱根まであと2ケ月と迫った全日本大学駅伝では、前回の箱根で7区を走った安田がケガから復帰し、ベストメンバーが揃いつつあった。他の選手たちも出雲駅伝の時と比べて調子が上がっているのは表情を見ても明らかだった。西も手ごたえを感じていた通り、日大、東洋大に次ぐ3位でゴールテープを切った明治は、このレースで初のシード権を獲得し最高の形で“プレ箱根駅伝”をクリアした。

「駅伝らしいレースができた」とコメントする西の頭の中では、悲願の箱根制覇を目指す体制が整いつつあった。最後の1ピースを除いては・・・。

 同じ頃、西が言う最後の1ピース・松本は懸命に調整に励んでいた。関東インカレの雪辱を胸に臨んだ夏合宿で、オーバーワークから坐骨神経痛を発症したことが悪夢の始まりだった。痛みをこらえて走り続けたことでかかとを負傷、さらに焦りから体調を崩し、往年のブレのない美しいランニングフォームは見る影もなくなっていた。復帰の目途が立たないエースの状態は確かに不安材料ではあったが、西は強気の姿勢を崩すことはなかった。

「今年は速い選手が5人いるから本番では往路に5人並べますよ」

 親しい記者からの「5区で柏原に勝てる選手はいないでしょう?」という質問に対しても「山登りのスペシャリストなんていなんだよ、高校でそういう練習しているところなんてないんだから」と一笑に付した。1区でスタートダッシュをかけてペースを握り、大量リードを保って5区の松本にタスキをつなぐ。西の頭の中ではレース展開は明確にできていた。というより、明治にとってこの展開にしか優勝する可能性はないと西は考えていた。

 12月29日、選手エントリー締切日。
 エントリーシートに松本の名前は、あった。当日、スタートの1時間前までに交代可能な“補欠”の欄に。この日も松本は懸命に調整を続けたが、調子は一向に上向く気配が無い。

 西の腹は、ほぼ決まっていた。
 1月2日、レース当日。
 明治大学は昨年の大会で総合8位と健闘し43年ぶりにシード権を獲得した。過去7度の優勝を誇る古豪は、箱根の前哨戦・全日本大学駅伝で3位に入り勢いに乗っていた。各校の戦力が拮抗し、“超戦国駅伝”と言われる今大会で、優勝候補の一角に挙げるマスコミも少なくなかった。OBたちも前回のメンバーが8人も残る編成に、明治史上最強の布陣と
称し、本気で1949年以来の優勝を期待していた。

 スタート1時間前、結局メンバー変更はなかった。5区はエントリー通り副キャプテンの久国公也が走る。西は、最終学年にして初めての箱根出場となる久国こそが5区のベストメンバーだと自分に言い聞かせた。箱根制覇という壮大なパズルの最後の1ピース・松本が欠けたままレースは始まろうとしていた。全選手の前で西は努めて明るい口調で言っ
た。「4区までにできるだけリードを広げて5区は勢いで押し切ろう」
“速い選手”は5人から4人に減った。松本の欠場は確かに痛いが、スタートダッシュを決めてトップで5区にタスキをつなげば勢いで走り切れると西は考えていた。

 午前8時に大手町で幕が開いた2日間の熱き闘いは、まさに西の想定通りの展開で動き始めた。スタートダッシュに成功した1区北条は、予想外の区間賞でレースを支配した。トップでタスキを受け取ったキャプテンの石川は、区間6位ながらもリードを守り切り“花の2区”をトップで終えた。次のエース候補・2年生の鎧塚も3区を想定以上の出来で激走した。入学当初からスーパールーキーと期待された4区安田は、これまでケガに泣かされ満足なレースをしたことがないまま最終学年を迎えていた。その安田が、生涯最高のレースを繰り広げ区間賞を獲得した。速い選手から順に投入して流れを作るという西の采配が的中した明治は、予定通り首位で5区の久国にタスキをつないだ。久方は卒業を機に陸上を辞める。だからと言って西は温情で久国を出場させた訳ではなかった。今シーズンを通してひたむきに駅伝と向き合う彼の姿勢に何か期待できるものを感じていたのだった。
この時点で7位東洋大とのは4分26秒。松本の欠場は想定内だった西にとって、4人の予想以上の激走は差し引きでプラスと言ってもいい程のうれしい誤算だった。
「これだけ離せば大丈夫だろう」西は往路優勝を意識し出していた・・・。

 その野望が打ち砕かれたのは区間中程の12.7キロ地点だった。“山の神の寵愛を受ける男”柏原は憎らしい程冷静な顔つきで久国の横を一気に駆け抜けた。もう一度競り掛ける力は久国には残っていなかった・・・。

 総合10位となったレース終了後、明治大監督の西弘美は爽やかな笑顔でコメントした。
「イメージ通りのレースでした。選手はよくやってくれました」
 最後の最後での大逆転負け・・・。
 明治大学捨て身の作戦は、新春の箱根路に強烈なインパクトを残した。

(三浦敬介=文)

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